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2013年07月21日

「海賊とよばれた男」百田尚樹氏講演~戦後復興を支えた先人たちの熱き志~

私も亡くなった祖父が大正生まれであったことに心から誇りを持ちました、石上です。
最後までお読みいただければ、わかると思います。

去る7月6日土曜日午後1時より、ひこね市文化プラザにて、
彦根青年会議所主催の百田(ひゃくた)尚樹氏講演会が開催されました。
一般の方も参加OK、こんなチャンスは滅多にないと思い、人生の大先輩2人と連れ添って参加してきました。


「海賊とよばれた男」百田尚樹氏講演~戦後復興を支えた先人たちの熱き志~
※撮影禁止だったため、会場到着後すぐ百田氏登場前の写真しかありません。

テレビでご覧になられたことがあるという方も多いと思いますが、百田氏はコテコテの関西弁に少しくぐもった話し方で、大変失礼ながら聞き取りにくい部分もありましたが、その圧倒的に充実した話の中身と迫力によりぐいぐい聴衆を引き込んでいきました。
私の感動を少しでも多くの人に伝えられればと、以下記します。
基本的に殴り書きしたメモを起こしたものなので、おっしゃったことと多少の相違があることをお許し下さい。

※注
以下は「海賊とよばれた男」の完全ネタバレな内容ですが、このレポートを読んでから本を読んでも、十分に楽しめると思います。
無論、本を拝読してからお話を拝聴した私も尚一層感動したことを付け加えます。



【百田氏の彦根への印象】

皆さん、こんにちは、百田尚樹です。
凄い集まりですね、彦根でこんなに集まるとは。
彦根市の半分くらい集まったんじゃないすか。
彦根は30数年ぶりです。
当時どんな街だったかほとんど覚えてませんが、彦根城も綺麗だしいいまちですね。
でも実は私のイメージで彦根といえば・・・
「カロム」しかないんです。
「カロム」は、私が今もやっている番組「探偵ナイトスクープ」で取り上げたことがあるんです。
彦根の学生が東京とか大阪とか外に出て、遊ぼうという話になって
「カロムやろう!」というと皆が「何それ??」というんです。
そこで初めて彦根の学生は、カロムが彦根にしかないと気づかされるんですね。

※石上注釈
カロムとは2人以上で行うボードゲーム。彦根市民はほぼ1家に1台所有しているとのこと。
ちなみにあまが池プラザスタッフ3名中1名の家にあるとのこと

終始こんな感じのノリでお話になりましたが、全て口語調で書くと大変なので、以下は私がチョコチョコ手を加えさせていただいています。


彦根の歴史は不幸な歴史で・・・
県庁所在地に選ばれなかった。
井伊直弼は切られ損。
日米修好通商条約を結んだことを非難され攘夷派に切られたのに、
明治政府はその後、開国してどんどん外国と貿易をおこなってしまったのだから。

と半分ネタ的に彦根に同情しつつも笑いを取りながら、最後は彦根は素晴らしいまちだと締めくくっておられました。




【講演テーマと『海賊とよばれた男』の関係性】

今日のテーマは
「日本の再生と発展」
~戦後復興を支えた先人たちの熱き志~

今年「海賊とよばれた男」が本屋大賞に選ばれた。

本屋大賞というのは、全国の書店員の皆さんが最も読者に届けたいと思う本を投票で選んだもの。
書店員には女性が多い。7割ぐらい。
なので、本屋大賞に選ばれるのは、女性向けの作品が多い。
ロマンスもイケメンもでない、私の本が選ばれるとは全く思わなかった。
授賞式の会場で、女性に聞いてみた。なぜ私の本に投票したのか。
「とにかく登場人物がカッコイイ!!こんな凄い男がいたのか」
と口を揃えて言われた。
そうなのか、現代に生きる若い女性もこういう男たちを待っているのか。
そう思ったときにこの本を書いて本当によかった。





【執筆のきっかけ】

出光佐三といって、明治18年生まれ昭和56年になくなった出光興産創業者の物語。
亡くなってから既に32年経つ。

なぜ書く事になったか・・・
今も放送作家として関わる探偵ナイトスクープの女性スタッフが、あるとき
「百田さん、日章丸事件って知ってますか?」
と聞かれたが、全く知らなかった。

昭和28年に起こった国際的大事件。
当時日本で5~6番目の一介の石油小売業者が
大英帝国そしてそれと手を結んだセブンシスターズ(7人の魔女)という国際石油メジャーを相手に戦い勝利した。

知ったときに衝撃を受けた。
世間の人より物を知っている自負があった。
でも全く知らなかった。

自分なりにネットなどで調べたら、
知れば知るほど、体がカーっと熱くなった。
こんなことやっている男たちがいたのか。

日章丸事件を調べていると出光佐三という男につきあたった。
忘れ去られた経営者。
ずっと調べていくと、身震いするほどの感動と興奮を与えてくれる人だった。





【東日本大震災】

これを知ったのは約2年前。
あの大震災の直後。

クリエーターとして悩んでいた時期。
お笑い番組などやっていていいのか。
花見もイベントも自粛していた。
自分たちだけが楽しんではいけないというムードだった。

小説家としてどういう作品を読者に届ければいいのか。
しばらく筆が止まっていた。
ちょうどそんなときに出光佐三の資料を読み解く機会に恵まれた。

日章丸事件を知っているかを片っ端から知り合いに聞いて回った。
でも誰も知らなかった。
60年前の重大ニュース。
なぜ皆忘れ去ってしまったのか。

たまたま知り合った、講談社の加藤晴之さんにも聞いてみた。
天王寺高校出身、東大から講談社。
フライデーの編集長、週刊現代の編集長
すごいインテリだし、加藤さんなら知っているだろうと。
加藤さんでさえ全く知らなかった。
※加藤晴之氏は後に「海賊とよばれた男」の編集者となる。

ちなみにこの加藤さん、週刊現代編集長時代、スクープ記事スキャンダル記事を政治家、タレント、大相撲協会などなど書きまくって、たくさんの訴訟をくらった。
請求総額40数億。
日本で一番訴訟請求額の多い編集長となり、そのおかげで左遷されてしまった。
週刊現代編集長時代、「袋とじ」を考案したのが彼。
さすが週刊現代辣腕編集長、大震災後に悩んでいる時に、彼からダンボールに入った大量の『日章丸事件』についての資料が届いた。これを読んで私は思った。

これを書くために僕は小説家になったのだ
と熱い使命感に燃えた。





【主人公『出光佐三』(作中では国岡鐡造)という人】

日章丸事件というのも凄いが、出光佐三その人の95年の生涯。
「劇的」という言葉では足りないくらいの
戦いにつぐ戦い。
一人の人間にこれほどの苦難が舞い降りるか・・・というくらい厳しい状況に常に立たされている。
その中で彼は一度も逃げず、一度も怯むことなく、徹底的に戦い続ける。
彼が生涯で目指していたのは「日本をいかに素晴らしい国にするか」このことだけ。
ドンキホーテ的とでもいうのか、見方を変えれば少し頭のおかしい男だが、
それくらい大真面目に日本を思った男。





【敗戦からのスタート】

この物語をどこから始めるかと最初に思ったのが、
「昭和20年8月15日」
日本がポツダム宣言を受託したことを天皇陛下が玉音放送で述べられた日。

4年近く戦った大東亜戦争、その前の日中戦争からいれると実に10年戦争に
敗れたその日。

なぜこの日を物語のスタートに選んだか。
日本中が焼け野原になり、何百万人の人が亡くなった。
茫然自失としたこの状況、これが東日本大震災後の日本とダブって見えた。

日本では今から20年前バブルがはじけ、更にリーマンショックがあった。
多くの経済学者が100年に一度の大不況だとか、構造的大不況だとか、日本はもう無理だと言っていた。
そんな折に東日本大震災があって、日本全体に諦めムードが漂った。
僕はそのとき「ちょっと待て」と思った。
100年に一度?もう立ち直れない?
そんなことはない!60数年前の日本を思い出してほしい。
もちろん僕は今57歳だから、その時代を知らない。その時代を知る人はほとんど亡くなった。

68年前の日本はこんなものではなかった。
東京、大阪、名古屋、福岡・・・日本の誇る大都市がすべて破壊され、焼け残っているものなどほとんどなかったということは、当時の写真を見てもわかる。見渡す限り焼け野原。

「海賊とよばれた男」はここから始まる。





【『海賊とよばれた男』の書き出し】

出光佐三は25歳から門司で商売を始め、30数年かかって従業員千名の中堅石油会社に成長させた。
銀行、官僚、国、軍部と戦った彼の活躍の場は海外であった。
従業員800名近くは海外の拠点にいた。

1945年の敗戦の瞬間、日本は官民問わず、全ての海外資産を没収された。
つまり出光佐三もこのとき、会社資産のほとんどを失った。
日本全体が茫然自失の状態。
そして出光佐三は終戦から2日後の8月17日に生き残った社員を招集し、こういった。
「愚痴をやめよ。愚痴は泣き言である。亡国の言葉である。婦女子の言である。」
(彼は記録魔で、自分の発言などはすべて記録に残している)
「日本は必ず立ち上がる。世界は再び驚動する。」
「ただちに建設にかかれ!!」

この言葉に胸が震えた。
戦争に負けて、会社資産を全て失った
既にこのとき、出光佐三は60歳。人生の晩年に差し掛かっているにも関わらずである。

その後日本は彼の言ったとおりになった。見事に立ち上がった。

日本が大東亜戦争で失ったのは300万人。
焼かれた家屋は数百万戸。
失業者千数百万人。住む家がない人、数百万人。
またこの年は大飢饉で食べる米もなかった。

1ヶ月後に出光興産は初めて重役会議を開く。
重役たちは出光にこういった。
「店主、もうダメです。会社は倒産するしかない。残すなら、従業員全員の首を切るしかない」
「ならん。一人の馘首(かくしゅ)もならん。海外から戻ってくる店員たちは全て面倒を見る」

個人資産を全て投げ打って、ギュウギュウ詰めの汽車に乗って、全国の社員の郷里を訪ね、金を配った。
行けないところには手紙を送った。

石油と全く関係ないありとあらゆる仕事を引き受けて立ち直っていく。
こうして出光興産は、海外から帰ってくる社員たちをクビにせず、戦後の一番厳しいときを乗り切った。
そしてこの社員たちが8年後、『日章丸事件』というとんでもない奇跡のような事件を起こす。





【執筆人生初の本気】

とにかくこの素晴らしき男たちを書くのだと書き始めたのが、2011年10月の終わり。
それから2012年5月まで。7ヶ月間書き続けた。
執筆するのは大嫌いだから普段は30~40分しかもたない。
ところがこの7ヶ月は起きてる時間すべてワープロに向かうか、資料を読むか。
そうしないと仕方ない、サボれない。
物語の中で、彼らは死に物狂いで戦っているのだから。
7ヶ月間に胆石発作で3度運ばれた。
10日間の入院を勧められたが、筆を止めるのが嫌で入院しなかった。






【当時の石油事情】

この本のクライマックスであり、この本を書くきっかけとなったのが
『日章丸事件』
出光佐三は同業者と手を組まないということを徹底していた。
=カルテルをつくらない
そして国、官僚の言うことは聞かない。
これは闇雲にいうことを聞かないということではなく、
どうすれば消費者の為に最も良いかを考えていたから。
日本の為に一番いい方法を考えると、どうしても官僚のいうことを聞けなかった。

昭和20年代前半は出光興産のライバルは、
アメリカ・イギリス・オランダの石油会社であった。
戦後これらの国の石油会社は日本を大きな市場と見た。
これらの会社が次々に日本の石油会社の株式を獲得し、その傘下に収めていった。
つまり外資に乗っ取られた。
そうしなければ、日本の会社は石油を入手できなかった。
そんな中、出光だけは絶対に外資と手を組まなかった。

戦後の日本を復活させるのに最も大切なのはエネルギー、当時原子力はまだないから、つまりこれは石油。
車を動かすのも発電も動力は全て石油。
これを全て海外に握られたら、日本の経済の復興は思うようにいかない。
出光佐三はそう信じて提携しなかった。




【セブンシスターズの圧力】

いずれ外資とではなく、産油国と直接取引できる時代が必ず来ると信じていた。
重役たちの大反対を押切り、国内で唯一、大型タンカーである「日章丸」を建造した。
世界の石油はセブンシスターズという7社が、自由主義社会の8割を占めていた。
共通の敵は協力して潰す7社だった。
最初に出光興産は、セブンスターズでないアメリカのサンオイルという石油会社の石油を輸入した。
この性能がとてもよく、これにより日本人は初めて自分たちが如何に粗悪なガソリンを使っていたかを知る。
ガソリン価格に革命が起こる。。
3度目の取引のとき、太平洋上に日章丸があるとき、このサンオイルから取引中止の連絡が入る。
これはセブンシスターズの圧力によるもの。
そこで、日章丸はパナマ運河を渡り、アメリカ東海岸のヒューストンの石油会社と取引を始めるが
やがて、セブンシスターズの圧力により終了してしまう。
その次はベネズエラの石油会社。これも同じ圧力を受ける。




【世界最大の産油国イランの受難】

昭和20年代頃、イランは世界最大の産油国といわれていた。
これをアングロ・イラニアンという会社が半世紀にわたって独占していた。
※「アングロ・イラニアン」=1954年より「B.P(ブリティッシュ・ペトロリアム)」となる。1970年代まで世界の石油生産を独占状態においたセブンシスターズの一社であり、スーパーメジャーと呼ばれる。

しかし、この会社はイギリスが株式を保有していて、イランに渡っていた利益はたった16%。しかも王族のみに。
イギリスが半世紀以上も前に僅かな金額で権利を獲得していた。

第一次世界大戦のときに石油の価値が劇的に変化した。
「石油の一滴は血の一滴。」
イギリスの海軍大将チャーチルはイランに目をつけた。
アングロ・イラニアンの株51%を獲得することで、イランの石油を独占した。

しかし戦後、全世界で民族独立が多発したころ、イランにも同じ風が吹く。
そうして、イランは強引に全ての石油施設を全て国営化する。
イギリスは激怒し、軍事制圧を画策。

イランの当時の首相モサッデグは「イギリスが軍事制圧するというなら、我々はソ連に援助を求める」と宣言。

これは既に当時アメリカが極東で起こしていた「朝鮮戦争」と全く同じことになる。
「アジアでも中東でも戦争はたまらん」ということで、アメリカがこれを止める。
さしものイギリスも、世界最大の軍事大国であったアメリカには逆らえない。

しかし、イギリスはイランを完全に経済封鎖する。
全世界にイランからモノを買うなといい、アラビア湾に海軍を派遣し、海上封鎖する。
セブンシスターズも同調し、今後イランの石油を買ったところには一切石油を売らない、と宣言。
これでイランから石油を買うところはなくなった。

そんな中、イタリアの石油会社が密かにイランから石油の輸入を試みた。
イギリスがそれに気づき、タンカーごと没収してしまった。
という出来事もあり、イギリスの本気に世界は慄く。
イギリスはもう一度宣言する。
「今後イランから石油を持ち出そうとするタンカーに対し、イギリス政府はありとあらゆる手段を講ずる」
つまり、撃沈も有り得ると・・・。
イランはこれで有り余る石油を持ちながら、世界のどこの国も自分たちの石油を購入してくれないという
状況に追い込まれた。
イランの資源は石油しかない、これでは外貨獲得は無理。
イランはどんどん疲弊していく。
イギリスに詫びて、石油施設を返還するか、当時のモサッデグ政権が倒れるか・・・。




【そして『日章丸事件』へ】

同じ頃、セブンシスターズに追い込まれていた日本の出光興産は、とんでもない決心をする。
「イランの石油を買いに行こう!」
重役たちは猛反対。
もし撃沈されたら・・・数億円かけて建造したタンカーが露と消え、完全に倒産となる。
「いまやらねばイランの将来はない。そして日本の将来はない」
当時出光佐三は68歳。
「ラマダンにいってくれるか」
「行きましょう」
そう答えたのは船長の新田は60歳。
下手したら沈められる。15歳のときから45年間、船一筋。
戦争中にも輸送船を操り生き残った。
当時戦時中の輸送船乗組員の死亡率は70%。
海軍の死亡率は10%だから、これが如何に高いか。
護衛も武器もなく丸腰で日本と東南アジアを往復した危険な任務を生き残った男。

イギリスの海上封鎖を突破し、ラマダンに入港。
世界を揺るがす大事件。
当時の日本の外務省はカンカン。
(イギリスとの友好を何より重んじていたから)
イギリス海軍は必死で日章丸を追いかけるが、全ての追撃を振り切り遥か5000km、
日本の川崎港に到達する。

日本は7年間ずっと占領されていた。
昭和27年サンフランシスコ講和条約でようやく、主権が回復。
それからたった1年で出光はこんな奇跡を起こした。

イランに入るまではスパイ映画のよう。
イランと日本には国交がなかったからいわば交戦状態。






【3つの問題】

当時の資料を読み解く中で、私が本当に感動したのは
「出光佐三(=興産)だけじゃなかった」ということ。

問題1『金』
これだけの石油を輸入するには莫大な額のお金が必要。
ツケというわけにはいかない。これは現金でなくとも
Letter of Credit=L/C(エルシー)=「信用状」が必要。
これは世界のしかるべき金融機関に持っていけば金になる。
このLCを取るために東京銀行に掛け合いにいく。
東京銀行重役は、イランとの取引という名目ではLCを出せない。
「しかし別の名目ならばLCは出さざるを得ない」
つまり、あなたがインチキをやればうちは仕方ない
と抜け道を教えた。


問題2『保険』
東京海上火災のある重役がこの保険を受けた。


問題3『ドル』
当時は1ドル=360円の固定レート。
ドルは非常に貴重な存在で、海外に持ち出すということは簡単にできなかった。
国のドル制限枠というものがあった。
通産省が管理していた。
イランの石油を取るためにドルが必要。
出光佐三は、通産省のある官僚に直談判にいった。
豪胆なこの役人は、
「まさかイランの石油を買う決意をするとは・・・」
「これをやるのは日本人しかないとおもっていた」
「そして日本人でこれをやるとしたら出光佐三しかいないと信じていた!」

こういって貴重なドルを相手国「ダラーエリア」と書いて、ドルの持ち出しを許可した。





【忘己利他(もうこりた…己を忘れて他を利する)】

そう、当時、銀行マン、保険マン、官僚であった彼らが
自分たちだけのこと・・・
また自分たちの組織だけのこと・・・
そして自分たちの出世、自分たちの生活だけのこと
を考えたなら、絶対にやらなかった。
クビになる。会社が潰れるかもしれない。とんでもないこと。

ところが彼らは「そうなってもいい!これは何としても成し遂げられなければならない!」
そう思って腹をくくったのだ。
昭和28年、この時代にまだこれほどのサムライが日本にはいたのだ。
彼らがいなければ日章丸事件はなかった。

※もちろんこれは実話であり、「海賊とよばれた男」には彼ら全てが実名で描かれている




【奇跡はやがて復興へと】

日章丸事件は当時の日本に大変な影響を与えた。
セブンシスターズの独占構造が潰れ、世界の産油国たちは直接各国と取引できると
知ることになった。そして日本は復興へとむかう。

この本で百田氏が書きたかったのは、もちろん出光佐三という凄い男のこと。
しかし、出光だけが凄かったわけではない。
当時の日本を支えたのは、出光一人ではない。
日本中焼け野原、食べるものも住むところもない。
ゼロどころか、莫大な賠償金を背負わされた。
普通なら50年経ったって立ち直れない。
日本は昭和39年東京オリンピック、
世界初の新幹線、名神高速道路・・・。
たった20年足らずで、戦勝国たちを上回り、アメリカに次ぐGNP世界第2位という奇跡
を成し遂げた。
これはその当時の日本人がどれほど頑張ったと思うのか。
どれほど働いて働いて働いたのか。
その頑張った日本人の象徴として出光佐三を描いた。




【大正世代】

7年前に「永遠のゼロ」を書いた。
そのときにあぁあの戦いを戦った人達は表舞台から消え去ろうとしているのだ。
僕らの世代は戦争の話を聞かされた。
僕らの次の世代にこの戦争の話を伝えたくて、永遠のゼロを書いた。

昭和20年代、戦後のボロボロだったのを立て直したのは誰だ・・・
そしてその少し前、大東亜戦争で日本の為に戦い命を失ったのは誰だ・・・
これは、実は全て大正世代。

大正生まれは1400万人いた。
大東亜戦争で300万人を日本は失ったが、実際戦場で戦って亡くなったのは
230万人。このほとんどが大正生まれ。
つまり7人に一人が戦死。大正8.9.10年生まれの方はおそらく2人に1人が戦死されている。
これほど厳しい世代はない。
大正世代というのは物心ついたときから、5.15事件や2.26事件などがあり国内は不安定、
そして徴兵で戦争、先輩後輩幼馴染が次々なくなっていった。
これは女性も同じ。
なんとか生き残ってようやく帰ってきたら、自分を出迎えてくれるモノなど何もなかった。
その国を彼らは自らもう一度立て直した。
私は彼らの背中に手をあわせたい。

昭和20年、大正世代は19歳から34歳。
昭和30年、ちょうど10年後で29歳から44歳。
つまり本当に日本を立て直したのがこの世代ということになる。
一言でいえば、この世代は他人の為に生きた世代。
自分の楽しみなんかひとつもなかったんじゃないか。


僕らももう一回頑張って次の世代に渡したい。






【若者よ!】

最近、若い子と喋っているとよくこう言われる。
「生まれたときにはバブルは弾けていて、震災は起こり、リーマンショックがあり、また震災。
希望も何もない、いいことなんか何もない。」


とんでもない!すごく悲しい。
君たちが立っている地点は、ゼロじゃない。
どれほど先人たちが努力して積み重ねてくれた地点だと思っているのか。
私も今年57歳、これからどれだけ生きれるかわからないが、少しでも
世のためになるようなことをしていきたいと思う。

最後に・・・
出光佐三が昭和56年になくなったとき、
昭和天皇が歌をお詠みになった。
一民間人の死に対し詠まれたのは、他に例がないのではないか。

三月七日、出光佐三逝く
「国のため ひとよつらぬき 尽くしたる
   きみまた去りぬ さびしと思ふ」


二人に個人的な親交はなかった。
にもかかわらず、国のために尽くした男と、陛下は認めてくださっていた。

彼は戦後日本を立て直した偉大な男たちの象徴。
もう一度なくしてしまった日本人としての自信を取り戻さねばならない。
僕らの父親、そしてその父親の世代たちは戦い抜き、今日の日本を築いた。
そして彼らのDNAを我々は引き継いでいるのだということをもう一度思い出そう!!




実に1時間半に及ぶ心のこもった熱い講演でした。
ここで一旦終了し、満場の鳴り止まぬ拍手。
もっともっと聞いていたい思いを抱いたのは私だけではないでしょう。




【質疑応答】

「それでは次に質疑応答に移らせていただきます。質疑応答のある方は挙手にてお願いいたします。」
間髪を入れず
「はい!!」
と大きな返事とともに立ち上がったのは同行していた隣に座る
Kさんでした。彼には緑創会など様々なところでお世話になっています。
守山の熱すぎる男です。
私も実は質問したかったのですが、負けました。
彼の堂々たる姿勢をもっと見習わなければなりません。

「永遠のゼロ・・・最初は戦記物語と思ったのですが、最後の20ページで号泣いたしました。
ご存知のように、参議院議員選挙が公示されました。
先生の本日のお話は日本国の再建について・・・視点は違うが現在もそれが望まれています。
この選挙で一番重要な争点の一つとされている『憲法論議』、日本人が憲法を作るということが一番大切だと私は思います。
今話題の憲法96条・・・百田先生はこれについてどうお考えでしょうか、お聞かせください。」



「私は憲法改正論者なのですけれども、もちろん反対の方もいらっしゃいます。
だからここで私の考えを強く述べるつもりはありません。皆さんに考えていただきたい。
ただ憲法について私の考えを述べる前に以下のことを知ってもらいたい。」

先生のツボを突いた質問だったのでしょう。
我が意を得たりとばかりに先生が熱く語り始められました。
私も一度背もたれにつけた体をグッと前のめりにし、ペンに力をいれます。
以下、ほぼ先生のお言葉のまま記載します。



憲法改正は絶対ならんという人はたくさんいます。
これは『改正アレルギー』やと思います。
憲法96条は憲法改正の為の条文ですけれど、これは結局憲法9条をどうしようかということで議論が起こってるんだと思います。
この9条、これは世界に誇るべき平和憲法、という方がたくさんいらっしゃいます。
朝日新聞なんかもそうです。
ところが日本国憲法とは一体どうやって作られたのか・・・
これを皆さんに知ってもらいたい。
日本国憲法は昭和21年に作られました。
これはGHQつまりは日本を占領しているアメリカが草案をつくったんです。
作成にかかった期間はわずか1週間と言われています。
日本は永久に交戦権を放棄するとあります。
当時なぜアメリカがこの条文を入れたかといいますと、
大東亜戦争にて、アメリカは開国以来初めて、非常な痛手を被ったんです。
これほど厳しい戦いを強いられたことはなかったんです。
4年かかってなんとか日本を占領したわけですが、
アメリカが日本をどういう国にしたかったかというと、
今後永久にアメリカに逆らえない国にしたかったのです。
ですから憲法9条というのは世界平和を指すのではなく、日本が永久にアメリカと戦えないようにするための条文なのです。
この草案ができたとき、GHQの内部でさえ数名が
『いくらなんでもこの条文はひどい。こんなことをしたら日本は骨抜きになる。この国がもし他国に攻められても何もできないじゃないか』
と言ったのですが、強引に押し切られました。

憲法改正について更にいいますと、アメリカは戦後6回憲法を改正しています。
フランスは27回、カナダは18回、ドイツは58回、憲法を改正してます。
つまり憲法を改正するということは普通のことなんです。
国際状況、あるいは生活あるいは時代の変化に応じて、憲法を改正していくというのはごく普通の考え方なんです。
世界の先進国はどこの国でもやっているんです。
日本は戦後67年間1度も憲法を改正していない。
これは世界最古の憲法なんです。ギネスに申請したら通るんじゃないかというくらいです。
ちなみにスイスは140回、メキシコは400回も憲法を改正しています。
まぁ400回も変えるというのは、元々の憲法に問題あると思いますけど。

占領されていた国、つまり主権がない国において、占領している国が強引に与えた憲法を持っているというのは、世界史的に見ても歴史上、日本とドイツの2例しかないんです。
こんなことありえないんです。
憲法というのは国民自らつくるものなんです。
占領している国が占領されている国に与えたなんて、世界のどの法律を見ても、こんなもの憲法じゃないんです。
これを与えられたドイツは、どう見ているかというと、ドイツ人自身はこれをそもそも憲法とみなしていません。
『ボン基本法』と読んでいます。
そしてドイツ人はこれを戦後58回改正して、自分たちの憲法にしました。

ですから憲法改正はとにかくダメだと言う前に、
憲法改正は決して悪ではない。
その時代にあったものにふさわしい憲法を選んでいくべきだというのが私の考えです。
そこからもう一度、憲法論議をすべきなのです。
更に僕の個人的意見をいうと、
憲法は改正するべきです。
今の憲法9条では、日本は大変なことになります。
安倍さんは自衛隊を国防軍にしようといってましたね。
国防軍にするというと、
「日本は軍隊を持つべきではない」という意見、「自衛隊は軍隊ではない」という意見、
逆に「日本は既に軍隊を持っている」という意見などがあります。

英語で言えば「フォース」。フォースというのは自衛隊も軍隊も一緒なのだから
改めて法律上も軍隊にする必要はないじゃないかという声もあります。
しかし法律上、軍隊にする必要があるんです。

軍隊はダメだという人は軍隊アレルギーを持っているんです。
軍隊を持つと、日本は再び戦前の軍国主義に戻る、日本は戦争に行くんじゃないか・・・
そんなことはないんです。
世界の国はみな軍隊を持っているんです。
世界には国が200数ヶ国あるんですが、そのうち軍隊を持っていない国は確か27ヶ国くらいなんです。
これらの国がどんな国かというと国じゃないんです。
ナウル・ツバル・バヌアツとか・・・聞いたことないでしょ。
南太平洋の島なんです。こんな島ね、軍隊持つ必要はないです。

じゃあヨーロッパはどうか、ヨーロッパは50ヶ国あります。
50ヶ国のうち、軍隊を持たない国は僅か6ヶ国。
バチカン市国・サンマリノ・モナコ公国など。
これらの国は広さでいうと、皇居ぐらい、または彦根市くらいなんです。
こんな小さい国に軍隊は不要です。
比較的広くて軍隊を持たないのはアイスランド。
でもねアイスランドってね、年中ほとんど氷なんです。
こんな国誰がとりますか?

21世紀の現代において、軍隊というのは一番の戦争抑止力です。
最もいい例はスイス。
スイスというのは永世中立国として200年間戦争をしていません。
200年って凄いですよ。200年も戦争していない国なんて他にはありません。
で、そのスイスがどんな軍隊を持っているかというと、スイスは国防費にGNPの実に8%も割いているんです。
兵隊が21万人。スイスの人口は800万人です。日本の自衛隊は人口1億3000万人に対して25万人。
スイスの男子は全員徴兵制の義務があります。女子は任意です。
2~3年の徴兵から帰ると自動的に予備役兵として登録されます。
そしてその予備役兵には一家に一台自動小銃が与えられるんです。
もしスイスの国が他国に攻められたときには、サラリーマンだろうが、普通のおっちゃんだろうが、
この自動小銃を持って、戦争に駆けつけるんです。
今は武器庫に保管されているんですが、2006年までは弾丸も支給されて家にあったんです。
国防ガイドブックもあって、もし戦争になったらどうやってゲリラ作戦をしていくかということまで書いてあるんです。
スイスという国は、そこまでして平和を維持しているのです。
だからこそ、このスイスという国に対してどこの国も戦争できない。
第2次世界大戦が勃発したとき、スイスはいち早く武装中立を宣言しました。
「スイス領空を侵犯するあらゆる飛行機、つまり連合国側、枢軸国側、関係なくすべての飛行機を打ち落とす」と宣言するんです。
実際に1945年の終戦までにスイス空軍は侵犯した飛行機250機を撃ち落としてるんです。
その代償として、1945年時点でスイス空軍はほぼ壊滅状態となったんです。
スイスはそこまでのことをしたからこそ、ヨーロッパ中が火の海となる中、何千万人という人々が死んだにもかかわらず、平和を守れたのです。

長いこと喋ってますけど、今ここで終わると、あいつは右翼だとかネトウヨだとか書かれると困るのです。
ほんまはもうちょっと喋らんと皆さんに納得してもらえないんですが・・・。

あともう一つだけ。
今の自衛隊のままじゃダメなのかという議論についてですが、
これは法律的にダメなんです。
今の憲法では交戦権がないが自衛権はあるのじゃないかということは、法律学者が無理やりこじつけているんです。
刑法では、人を殺してはダメですが、正当防衛は許されています。
これは自衛隊でも同じこと。
正当防衛の成立というのは非常に難しいです。
もうこれ以上、これしか手がないというときに抵抗することは許される。
戦場において、この判断をするのは非常に難しいのです。
例えば相手と戦場で撃ち合う。
後で調べて相手が15発、こちらが18発撃ってしまっていたら、過剰防衛と言われてしまうのです。
ミサイル同士で対抗したときにこちらのミサイルの方が優秀だったらどうなるのか。
例えばですよ、中国が攻めてきて、日本の市民を殺そうとする。
それを守るために、自衛隊がその中国人を撃ち殺したとします。
こうすると今の法律でいえば必ず彼は殺人罪で告訴されます。
そんなこと許されますか。
日本国民を守るために戦った自衛隊員が、告訴されるなんて許されていいはずがないのです。

いろいろとややこしいです。
ヒゲの隊長佐藤さんがイラクにいったとき、砂漠でイギリスのジープがひっくり返っていたんです。
その横にイギリス人が怪我して倒れていたんです。
普通は助け起こすんですが、これができないんです。
まずこのジープが敵の攻撃を受けて倒れたのか、自分で勝手に倒れたのか、これを調べなければならないんです。
もし敵の砲弾を受けた兵士を助けると、戦闘行為とみなされるんです。
これ馬鹿げてますよね。
こうなると集団的自衛権を行使したとして、日本の自衛隊はやられてしまうのです。

またネガティブリスト、ポジティブリストという考えがあります。
自衛隊はポジティブリストであり、やってもいいよということしかできない。
ところが軍隊となると、やってはいけないということ以外何をしてもいいのです。
国際法上、やってはいけないことはたくさんあります。
例えば捕虜の虐待であったり、他国で略奪するなど。
それ以外は何をしてもいいのです。

もし中国が攻めてきたら自衛隊はどうすべきか、いちいち六法全書を開くなんて無理です。

これねもっとまだ1時間は喋りたいんですけど、時間がないんです。
今日の僕の講演聞いて、皆さんネトウヨやなんて書かんといてくださいよ。


ここで時間切れとなり、講演会は終幕を迎えました。



百田さん自身がおっしゃる以上に、もっとお話を聞きたかったです。
かつて「永遠のゼロ」(→2010年10月5日の記事)を読んで以来、彼の作品はほぼ全て拝読していますが、その魅力の秘密を垣間見れた気がします。
お会いして感じたのは、彼の圧倒的なエネルギーと、その熱き心。
そしてこの国を心の底から愛する強い気持ち。
これが根底にあるからこそ、これだけ感動を与える作品を書き続けることができるのだと思います。

以下のような書評が彼の本の帯にあります。
「百田作品をまだ呼んでない人は幸せだ。至福の時間がこれから保証されているから。」

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Posted by みらいもりやま21 at 13:34│Comments(0)講演・研修レポート

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