古高俊太郎が滋賀県
守山市出身の人物だと弊社社長から聞いて、以前から京都に行ったら是非とも立ち寄りたいと思っていた場所がありました。
東寺から車を走らせること約10分。高島屋横の30分300円というぼったくり駐車場に車をとめ、京都一の繁華街
四条河原町へ。
高島屋
ここから東へ向き
四条通りを100mほど歩くと
大崎取締役が学生時代、飲み歩いたであろう
木屋町通りが見えてきます。
高瀬川を挟んで一本西の細い小道を北に向きます。
突き当たりを西に折れ、100mほど歩くと目的地に到着
老舗京料理
志る幸
店前の角に石碑が・・・
そうです、ここに我らが
古高俊太郎の屋敷があったのです。
しかし、この看板「近江国
大津に生まれた」って・・・・・。
できれば近江国
守山に書き換えてもらえないか、京都市に要請すべきでしょうか。
古高はここで諸藩御用達・枡屋を営み、熊本藩士
宮部鼎蔵らと親交し、幕府の目をかいくぐり尊皇攘夷派の長州藩士をよく支援したのですが、
池田屋事件の直前に新撰組につかまり、近藤勇らから激しい拷問を受け、
「尊攘派が池田屋にて天皇誘拐、佐幕派大名の暗殺の謀議を行っている」と自白したと伝えられています。
これを聞いた新撰組が、池田屋に突入し、
尊攘派志士側9名死亡、4名捕縛(対して新撰組側において、この場で死亡したのは1名のみ)
となったのが世に言う
池田屋事件です。
これにより、維新が遅れたとも早まったとも言われます。
しかし、古高俊太郎が自白したという証拠は、新撰組側の資料にしかありません。
1.当日、新撰組は近藤隊(10名)と土方隊(12名または24名の説)に分かれて行動していた。
2.20名以上いた尊攘派に対して、土方隊を待たず、近藤隊はたった4名で斬り込んでいる。
上記2点の理由から、古高の自白があったとは考えにくく、新撰組が片っ端から京都の町を捜索していた際にたまたま池田屋事件が発生したのが史実ではないかという説を私は支持します。
つまり、幕府側(新撰組)が大義名分を主張するため、「天皇陛下の誘拐や大名の暗殺を謀議していた不届きものたちを誅殺した」というストーリーを捏造したということです。
足利事件の例を見るように、今も昔も変わることなく、密室の取調べというものは信用できません。
この後、古高は牢獄に入れられ、約1ヶ月後
禁門の変による
どんどん焼け(京都で起こった大火事)の際に逃亡を恐れた役人に斬首されてしまいます。
池田屋事件で死亡した9名のうちの
宮部鼎蔵ら7名が、後に明治政府から
殉難七士と呼ばれますが、古高も彼らに並ぶ維新功労者の一人に違いありません。
この
志る幸の前から河原町通り(西)を向くと、情緒ある佇まいが残っています。
しかし後ろ(東)を向くと
少し残念です。
守山出身の英雄に敬意を表し、また、その死後、汚名を着せられた(かもしれない)その無念に思いを馳せ、彼の石碑に合掌し、この場を離れました。