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Posted by 滋賀咲くブログ at

2009年12月31日

あっという間に一年がたちました。

ずいぶんとブログ参加を怠っている清原です。今年最後にブログに挑戦です。

みんなに支えられて、何とかMM21のこの一年の取り組みが終わろうとしています。
もちろん満足のいく活動ではありませんでしたが、それなりの取り組みはできたかなと思っています。

今年を振り返って一番の成果は、MM21の企画員の頑張りだったと思います。
よく理解し、行動してくれたと思います。

石上君の守山を理解し、愛し、どこでも飛び込んで親しくなるバイタリティーはすごいものがあります。
来年もあちこちで「僚が行く!」シーンが見られることでしょう。みなさん気軽に声をかけてやってください。

井上さんはやはり今までの職歴もあり、いつも冷静で計画や提案の方向性をきちんと分析してくれます。
来年のMM21の取り組みに関しても、今一度「中心市街地活性化基本計画」を見直し、本来のMM21
の取り組むべき仕事の軌道修正をしてくれています。

北村さんは「守山の地域資源」に関して熱心に取り組み、MM21ブランドのアメやメガネ拭きなど、収益事業のきっかけづくりに力を発揮してくれていますし、頼もしい金庫番でもあります。

また、役員のみなさんも、経済情勢がこんな中、自分の仕事も大変な時、役員会はじめさまざまな活動に参加いただき、頼りない社長を支えていただきました。

市の職員のみなさん、そして各サポーターのみなさん本当にありがとうございました。

来年はハード整備も徐々に進行します。MM21に対する期待度も大きいものがあると思われます。
私も精いっぱい与えられた任務遂行のため努力する覚悟です。

みなさん来年もよろしくお願いいたします。

まずは感謝、感謝の年の暮れです。









  

Posted by みらいもりやま21 at 11:23Comments(0)社長清原の部屋

2009年12月29日

古高俊太郎

古高俊太郎が滋賀県守山市出身の人物だと弊社社長から聞いて、以前から京都に行ったら是非とも立ち寄りたいと思っていた場所がありました。


東寺から車を走らせること約10分。高島屋横の30分300円というぼったくり駐車場に車をとめ、京都一の繁華街四条河原町へ。



高島屋


ここから東へ向き



四条通りを100mほど歩くと






大崎取締役が学生時代、飲み歩いたであろう木屋町通りが見えてきます。




高瀬川を挟んで一本西の細い小道を北に向きます。






突き当たりを西に折れ、100mほど歩くと目的地に到着



老舗京料理志る幸




店前の角に石碑が・・・











そうです、ここに我らが古高俊太郎の屋敷があったのです。

しかし、この看板「近江国大津に生まれた」って・・・・・。

できれば近江国守山に書き換えてもらえないか、京都市に要請すべきでしょうか。

古高はここで諸藩御用達・枡屋を営み、熊本藩士宮部鼎蔵らと親交し、幕府の目をかいくぐり尊皇攘夷派の長州藩士をよく支援したのですが、
池田屋事件の直前に新撰組につかまり、近藤勇らから激しい拷問を受け、
「尊攘派が池田屋にて天皇誘拐、佐幕派大名の暗殺の謀議を行っている」と自白したと伝えられています。

これを聞いた新撰組が、池田屋に突入し、
尊攘派志士側9名死亡、4名捕縛(対して新撰組側において、この場で死亡したのは1名のみ)
となったのが世に言う池田屋事件です。
これにより、維新が遅れたとも早まったとも言われます。



しかし、古高俊太郎が自白したという証拠は、新撰組側の資料にしかありません。

1.当日、新撰組は近藤隊(10名)と土方隊(12名または24名の説)に分かれて行動していた。

2.20名以上いた尊攘派に対して、土方隊を待たず、近藤隊はたった4名で斬り込んでいる。

上記2点の理由から、古高の自白があったとは考えにくく、新撰組が片っ端から京都の町を捜索していた際にたまたま池田屋事件が発生したのが史実ではないかという説を私は支持します。

つまり、幕府側(新撰組)が大義名分を主張するため、「天皇陛下の誘拐や大名の暗殺を謀議していた不届きものたちを誅殺した」というストーリーを捏造したということです。

足利事件の例を見るように、今も昔も変わることなく、密室の取調べというものは信用できません。


この後、古高は牢獄に入れられ、約1ヶ月後禁門の変によるどんどん焼け(京都で起こった大火事)の際に逃亡を恐れた役人に斬首されてしまいます。

池田屋事件で死亡した9名のうちの宮部鼎蔵ら7名が、後に明治政府から殉難七士と呼ばれますが、古高も彼らに並ぶ維新功労者の一人に違いありません。






この志る幸の前から河原町通り(西)を向くと、情緒ある佇まいが残っています。



しかし後ろ(東)を向くと



少し残念です。



守山出身の英雄に敬意を表し、また、その死後、汚名を着せられた(かもしれない)その無念に思いを馳せ、彼の石碑に合掌し、この場を離れました。  

Posted by みらいもりやま21 at 16:03Comments(1)おでかけ

2009年12月29日

東寺(教王護国寺)

12月27日(日)に遠方から友人が来てくれたので、京都を案内してきました。

高校時代、毎日その姿を見ていたものの、いまだ門内に入ったことのなかった世界遺産である東寺、またの名を教王護国寺に行ってまいりました。



なぜ、寺という名前なのか・・・。
現在の御所の位置から見ると南南西の方角にあります。

かつて、御所は千本丸太町(ちなみにここは本州最南端である潮岬の真北に位置し、その2点を結んだ一直線上に奈良の法隆寺も存在します)付近にあったそうです。ここから、見ると確かに南東の方角に位置します。
当然、千本通りを挟んで真西に西寺もあったのですが、現存していません。




南側、九条通り沿いの南大門からは入れず、東側にあたる大宮通り沿いから周り、すぐ横の駐車場へ。2時間まで600円。毎月21日の弘法市の日などは満車間違いなしです。この日は日曜日でしたが、午前中だったためかすぐに入ることができました。



食堂
しょくどうではなく、じきどうと読みます。

横を通って、拝観受付へ。拝観料は500円。拝観料を払わずとも五重塔を見ることは可能です。


拝観受付の外(北側)から見た五重塔。





拝観料を払って中に入り、まず右手に見えるのが講堂(重要文化財)




825年  弘法大師により着工
1486年 焼失
1491年 再建

中に入るとたくさんの仏像が並んでいます。数えてみると21体。撮影禁止なのが非常に残念なほど迫力のあるものばかりです。

今まで東寺というと五重塔しか知らなかったんですが、この建物ひとつだけでもとても立派な歴史資源です。






そしてその真南に位置するのが、金堂(国宝)




796年  創建
1486年 焼失
1603年 片桐且元(賤ヶ岳の七本槍の一人)により竣工

桃山時代の豪放雄大な気風がみなぎります。

この中にも、真ん中の像は10mにも達する薬師三尊像、そしてそれを守る十二神将像が配置されています。






そして五重塔(国宝)


826年  弘法大師創建着手
       4度に渡り焼失
1644年 徳川家光の寄進により竣工

高さ55mあり、現存する日本の古塔で最高です。

残念ながら、五重塔の内部には入れません。

五層の屋根を持つため、五階建てと誤解しがちですが、中は吹き抜けになっているそうです。

五重塔の宗教的な意味合いとしては、もともとストゥーパ(仏舎利塔)といって、釈迦の遺骨の一部が建物の下に納められているそうです。
(京都だけで、4塔もあるので、本物の釈迦の遺骨が入っているとは考えにくいですが・・・。)






五重塔から瓢箪池を挟んで北側に
宝蔵(重要文化財)

字のごとく、宝物を保管していた建物です。


他が目立つので、軽視しがちですが、創建されたのは8~9世紀な訳で、東寺の中で最古の建物になります。

なぜか、ここは拝観料払わずに見ることができます。




他にも拝観料不要で見学できるのは

大師堂(国宝)・・・御影堂とも呼ばれ、かつて弘法大師が住まわれた。
灌頂院(重要文化財)
食堂
大日堂
などの建物、

そして
南大門(重要文化財)
蓮花門(国宝) ・・・西側
などがあります。


毎月21日の弘法市(弘法さん)は、千軒以上の露店、20万人以上の人出で賑わうそうです。
また、毎月第1日曜日には骨董市も行われています。  

Posted by みらいもりやま21 at 14:35Comments(0)おでかけ