2011年10月27日
時代が由布院に追いついた。
かつて高度経済成長期の温泉ブームに乗って、
団体客誘致のため、旅館・ホテルの巨大化に走った、
熱海・鬼怒川・別府などに代表される温泉街。
それらとは一線を画した温泉地、大分県由布市の由布院に行ってきました。
湯布院・由布院・ゆふいんとさまざまな表記がありますが、その理由については本題とそれるので今回割愛します。
現在でこそ、
温泉地ランキング総合部門1位 女性部門1位男性部門2位(旅チャンネル)
人気温泉ランキング2位(じゃらんnet)
第24回(2010年度)にっぽんの温泉100選総合3位(観光経済新聞社)
と輝かしい評価を受け、年間400万人超の観光客が訪れる由布院。
しかし、湯布院町役場が観光動向調査を始めた1962年(昭和37年)には、年間たったの38万人しか、観光客がいなかったのです。
半世紀の間に10倍に増えた観光客、由布院の秘密を探るうちにまちづくりというものが見えてきました。
最初に、由布院のまちづくりを語るに欠かせない3名(いずれも旅館経営者)のキーマンを列挙したいと思います。
彼らは今から40年前、視察のため借金をして訪れたドイツのあるまちで、こう聞きます。
「まちづくりには、企画力のある人、調整力のある人、それを伝えることのできる伝道者の3者が必要である。」
そして、その3名は見事にその3役を務めきることになるのです。
『企画』中谷健太郎氏・・・・・亀の井別荘代表取締役社長、湯布院町商工会長、由布院温泉観光協会会長
『調整』溝口薫平氏・・・・・・・玉の湯代表取締役会長、国土交通省観光庁観光カリスマ百選
『伝道』志手康ニ氏(故人)・・夢想園
私が興味を持ったのは、彼ら3名が勇躍したのは、現在の私と同じ30歳代前半であったこと。
いまでこそ、故人をのぞき、まち(どころか観光業界)の重鎮・カリスマになった方ですが、当時はイチ貧乏旅館の若旦那に過ぎなかったのです。
団体客誘致のため、旅館・ホテルの巨大化に走った、
熱海・鬼怒川・別府などに代表される温泉街。
それらとは一線を画した温泉地、大分県由布市の由布院に行ってきました。
湯布院・由布院・ゆふいんとさまざまな表記がありますが、その理由については本題とそれるので今回割愛します。
現在でこそ、
温泉地ランキング総合部門1位 女性部門1位男性部門2位(旅チャンネル)
人気温泉ランキング2位(じゃらんnet)
第24回(2010年度)にっぽんの温泉100選総合3位(観光経済新聞社)
と輝かしい評価を受け、年間400万人超の観光客が訪れる由布院。
しかし、湯布院町役場が観光動向調査を始めた1962年(昭和37年)には、年間たったの38万人しか、観光客がいなかったのです。
半世紀の間に10倍に増えた観光客、由布院の秘密を探るうちにまちづくりというものが見えてきました。
最初に、由布院のまちづくりを語るに欠かせない3名(いずれも旅館経営者)のキーマンを列挙したいと思います。
彼らは今から40年前、視察のため借金をして訪れたドイツのあるまちで、こう聞きます。
「まちづくりには、企画力のある人、調整力のある人、それを伝えることのできる伝道者の3者が必要である。」
そして、その3名は見事にその3役を務めきることになるのです。
『企画』中谷健太郎氏・・・・・亀の井別荘代表取締役社長、湯布院町商工会長、由布院温泉観光協会会長
『調整』溝口薫平氏・・・・・・・玉の湯代表取締役会長、国土交通省観光庁観光カリスマ百選
『伝道』志手康ニ氏(故人)・・夢想園
私が興味を持ったのは、彼ら3名が勇躍したのは、現在の私と同じ30歳代前半であったこと。
いまでこそ、故人をのぞき、まち(どころか観光業界)の重鎮・カリスマになった方ですが、当時はイチ貧乏旅館の若旦那に過ぎなかったのです。
【由布院らしさ】
由布院には
有名な名所旧跡があるわけではありません。
大型のテーマパークがあるわけでもありません。
行政や大企業主催の大きなイベントがあるわけでもありません。
団体客が泊まれる大型のホテル・旅館があるわけでもありません。
でも由布院には
由布岳があります。
金鱗湖もあります。
地元の人による、ゆふいん音楽祭・湯布院映画祭・午喰い絶叫大会など手づくりのイベントがあります。
亀の井別荘や玉の湯などに代表される、情緒ある旅館があります。
そう由布院には由布院らしさがあります。
<由布岳>(その形容から豊後富士と呼ばれる)
<金鱗湖>
<由布院玉の湯>
<亀の井別荘>
では、この由布院らしさとは、いかにして成ったのか。
由布院から車で40~50分ほどの距離にある、「山は富士 湯は別府」と称された別府温泉。
現在も観光客は年間1200万人を数え、昭和40年当時には既に700万人を超えていました。
その頃、「奥別府」などと呼ばれた由布院では、
「小さな別府になるな!」を合言葉に若者たちが躍動しはじめていました。
「由布院は、由布院らしい独自の歩き方をしなくてはいけない。由布院の地域性を生かして、由布院らしい個性的なまちづくりを続けようではないか。今は、観光客が来なくて苦しいかもしれない。しかし、そのことを継続してやっていけば、そのことが輝く時代が絶対にやって来る。それを信じて、次の時代を生きる子どもたちのために、『由布院はなんとゆたかな町なんだ』と言われる町を、みんなでつくっていこう。その想いを、みんなでつないでいこうではないか。」
と、今の私と年の変わらない人たちが、まちの人に説いてまわっていたそうです。
それを象徴する出来事がありました。
1970(昭和45)年、ゴルフ場の建設計画が持ち上がったのです。
「ゴルフ場の建設が環境破壊に繋がるからやめよう」
などと堂々といえるようになったのは、最近になってからのこと。当時は高度経済成長期の真っ只中。
ゴルフ場を造る→金が投資される→雇用の場ができる→プレーする客が大勢来る→まちが賑わう
「開発」=「地域の活性化」
と信じていた人が圧倒的に多かった時代です。
上述した3名のキーマンが中心となって開発阻止に動きます。
何よりも「スピード」
由布院の自然を守る会→明日の由布院を考える会へと発展した「大義名分」
知名士百人へのアンケートに代表される、「話題性」「マスコミの活用」
数名の若者が始めた運動が功を奏し、ゴルフ場計画は中止されます。
この結果がもたらしたものが非常に大きく・・・
まだ、環境(自然)<開発(経済)が当たり前だった時代に、由布院は自然環境を大切にするまちだというイメージを植えつけることに成功したのです。
当時、となりの別府には大きな歓楽街があり、飲んで食べて歌って楽しむ団体客がたくさん訪れていました。
別府駅
高い建物が立ち並ぶ、別府のまちなみ
由布院はそれを真似ることを否定しました。
別府をはじめとする他の有名温泉地が「団体、男性、歓楽街」と叫んでいたときに
由布院は「小グループ、女性、保養地」を目指しました。
量>質の時代に、逆を目指す。いまでこそ、なんでもないことのように思えますが、これはすごいことです。
むろん、多くの観光業者の反対がありました。
が、それを押し切って、由布院は独自の道を歩き始めたのです。
そうです、このときに女性からの圧倒的な支持を受けることになる現在の「由布院温泉」の原型ができあがったのです。
由布院は田舎であり、田舎とは不器用で効率よく生きられません。
でも、その効率的でない「のんびり」「ゆっくり」という別の価値観が求められる時代になったのです。
由布院のまちのすぐ横に広がる牧草地
↑別府のまちを一望
↓由布院のまちを一望
もうひとつ、『由布院らしさ』を語る上で欠かせないキーワード。
それは、由布院は「生活観光地」であるということ。
由布院を愛し、何度も訪れる方に共通することは、由布院の日常生活を愉しみに来ているということ。
「観光というものは特別に観光のものとしてつくられるべきではないのです。その土地の暮らしそのものが観光というものなのです。」
中谷健太郎氏はいいます。
溝口薫平氏はこうも言っています。
「地域というものがあってこそ、旅館業は成り立つのだ。由布院という町が良くならなければ、私たちの旅館業も良くならない。旅館業だけが良くなる。そのようなことは絶対にありえない。また、あってはならない。地域があってこそ、私たち旅館業は生きていける。そう、はじめに由布院という地域ありきなのだ。『観光』ではなく、まず『地域』ということだ。そういう想いで、由布院の人たち、みんなでがんばってきたのだ。」
観光よりもまず地域ありきで、地元住民のために地元住民自身がおこなってきたまちづくりがもたらしたのは、訪れたいまちNo.1の称号、そして400万人の観光客。
住みよさNo.1→訪れたいNo.1になり得るということなのです。
守山は、観光でまちおこしを狙っているわけではありません。
しかし、もともと温泉地であり観光のまちだった由布院が、常に来街者の目線を意識すると同時に、まず何よりも地域(地元)を大切にしたからこそ今があるという事実は、おおいに学ぶべきところがあると思います。
人財(=人材、後継者)育成についても、由布院には目を見張るものがあります。
昭和40年頃、大活躍した若者たちも、もちろん今は年老いています。
当時、偶然にも「ワカモノ・バカモノ・ヨソモノ」の3要素を持ったキーマンが結集していたのですが、どこのまちでも得てして強烈なリーダーの後継者に悩まされるものです。
成功した創業社長の息子が、どうしようもないボンクラというのはよくある話。
しかし、由布院では今も、多数の若者が大活躍をしています。
ではその秘密は、どこにあるのか。
ひとつは、その環境。前述のキーマンたちがつくった様々な会。
非常に前向きで、活発な議論を聞いてきた後輩たちは、おそらくのびのびと育ったことでしょう。
もうひとつは、なんといっても由布院のヨソモノを受け入れようとする、その姿勢にあると思います。
その中の有名なエピソード。
由布院には全国的にも珍しい、観光協会と旅館組合が一緒になって運営している
「由布院観光総合事務所」というものがあります。
ここは、「まちづくり情報センター」という機能も兼ねていて、事務局長にはできるだけヨソモノを据えるようにしているそうです。
普通なら、行政のOBだとか、まちに詳しい人がなるものですが、由布院は極力、外の風を入れようとしているのです。
過去に東京のコンサルや、瀬戸市役所、静岡県庁職員などが事務局長に就任しているそうです。
平成10年の公募の際は、全国から93人の応募があったとか。
町長の経験者や、会社の重役など多種多様な人が手を上げ、最終的には34歳の現役東京都庁職員米田氏が選ばれたそうです。
彼を選んだ理由というのが面白い。
面接時、トラブル対応についての質問で、以下のようなやりとりがありました。
面接官は中谷氏。
中谷氏「由布院観光総合事務所には、時には苦情を言ってくる観光客がいます。そのとき、あなたならどうしますか?」
米田氏「事情をよく聞いて、丁寧に説明するなり、それなりの対応をします。」
中谷氏「それでも、苦情を言う観光客がいます。どう対応しますか?」
米田氏「ゆっくりとよく事情を聞いて、より丁寧に対応します。」
中谷氏「それでも、しつこく苦情を言う人もいます。どう対処しますか?」
米田氏「時間をかけて事情を聞いて、その人がどうして欲しいのか、それに対処します。」
中谷氏「それでも、それでも、苦情をどなるように言います。どう対処しますか?」
それはしつこくしつこく尋ねたそうです。
最後に米田氏はにやりと笑ってこう言いいました。
「表へ出ろ」
その瞬間、中谷氏はこの人なら、と思ったそうです。
また、米田氏は滅法酒に強く、いくら飲んでも酔わないことも理由のひとつだったとか・・・。
そんな彼が、都庁を辞めて、奥さんと二人の子どもを連れて、由布院に移り住んだというのですから、まさに天晴れな人財の獲得です。
【行政との関係】
どこのまちでも行政主導が当たり前だった時代でした。
当時から、由布院は民間主導のまちづくりをおこなっています。
もちろん、行政の頑張りもあったに違いないのです。
しかし、行政職員がゆえの難しさ・・・
・常に責任ある姿勢をとり続けなければならない。
・組織の中の一員として動かねばならない。
・中立であらねばならない。
・批評的立場がとれない。
・そして何より、失敗が許されない。
行政が自由に考え、ものを創るというのは極めて難しい。
溝口氏曰く
「まちづくりは『人づくり』。そのためには、若い人が何かをしようとするとき、何らかの支援を少しでもしてくれる。それが『行政』の役割」
また、彼はまちづくりの視察で訪れた方からの「行政は何をしてくれましたか?」という質問に対しては
「邪魔をしなかった」
と答えるようにしているそうです。
自分たちの力だけでなんとかしようと本気で考えている人だからこそ、いえることだと思います。
まちづくりのキーマンたちと行政の関係を示すに溝口氏は、
「対立的信頼関係」
と表現しています。
お互い「良きまちにしたい」という思いは同じ。
ただ「馴れ合いではいけない」という気持ち。
行政だけでなく、この関係をまちのキーマンたちと結べたとき、まちづくりは飛躍的に進んでいくのではないでしょうか。
【これからの由布院の課題】
まちを歩くと、観光客が溢れかえっています。
狭い道をためらいなく、自動車が駆け抜けます。
時代が由布院に追いついた結果、現在では由布院のキャパシティを超える観光客が訪れるようになりました。
これを手放しに喜べない状況になっています。
そう、「のんびり」「ゆっくり」という『由布院らしさ』を楽しめなくなりつつあるのです。
押し寄せる観光客目当ての、どこの観光地にもあるような大手資本の土産店も増えてしまいました。
(派手な看板や押し寄せる観光客により、「らしさ」が損なわれる由布院)
現在、由布院では5年後の観光客を減らすことを目指しておられます。
まさにこれが『由布院らしさ』
どこの観光地が観光客減を目指すというのでしょうか。
たった1日の滞在では『由布院らしさ』はわかりません。
由布院を好きな方は、一生に何度も、一年に何度も、そしてその中でも連泊をして初めてその魅力がわかるといいます。
観光バスに乗って、通り過ぎただけでは由布院の魅力はわかりません。
精一杯、予習していった私も、まだまだ由布院の本当の魅力をつかみきれていません。
またいつか必ず由布院というまちを訪れたいと思いました。
まちづくりには、企画、調整、伝道力が必要。
守山らしさをいかす。
対立的信頼関係。
最後に、参考にしたい由布院を代表する町家のカフェ(バー)を紹介します。
亀の井別荘「天井桟敷」
【参考文献】
由布院の小さな奇跡 木谷文弘 新潮社
滋賀大学観光まちづくりフォーラム 講演録
「由布院のまちづくりに学ぶ」
由布院にみる地域づくり、まちづくり
由布院には
有名な名所旧跡があるわけではありません。
大型のテーマパークがあるわけでもありません。
行政や大企業主催の大きなイベントがあるわけでもありません。
団体客が泊まれる大型のホテル・旅館があるわけでもありません。
でも由布院には
由布岳があります。
金鱗湖もあります。
地元の人による、ゆふいん音楽祭・湯布院映画祭・午喰い絶叫大会など手づくりのイベントがあります。
亀の井別荘や玉の湯などに代表される、情緒ある旅館があります。
そう由布院には由布院らしさがあります。
<由布岳>(その形容から豊後富士と呼ばれる)
<金鱗湖>
<由布院玉の湯>
<亀の井別荘>
では、この由布院らしさとは、いかにして成ったのか。
由布院から車で40~50分ほどの距離にある、「山は富士 湯は別府」と称された別府温泉。
現在も観光客は年間1200万人を数え、昭和40年当時には既に700万人を超えていました。
その頃、「奥別府」などと呼ばれた由布院では、
「小さな別府になるな!」を合言葉に若者たちが躍動しはじめていました。
「由布院は、由布院らしい独自の歩き方をしなくてはいけない。由布院の地域性を生かして、由布院らしい個性的なまちづくりを続けようではないか。今は、観光客が来なくて苦しいかもしれない。しかし、そのことを継続してやっていけば、そのことが輝く時代が絶対にやって来る。それを信じて、次の時代を生きる子どもたちのために、『由布院はなんとゆたかな町なんだ』と言われる町を、みんなでつくっていこう。その想いを、みんなでつないでいこうではないか。」
と、今の私と年の変わらない人たちが、まちの人に説いてまわっていたそうです。
それを象徴する出来事がありました。
1970(昭和45)年、ゴルフ場の建設計画が持ち上がったのです。
「ゴルフ場の建設が環境破壊に繋がるからやめよう」
などと堂々といえるようになったのは、最近になってからのこと。当時は高度経済成長期の真っ只中。
ゴルフ場を造る→金が投資される→雇用の場ができる→プレーする客が大勢来る→まちが賑わう
「開発」=「地域の活性化」
と信じていた人が圧倒的に多かった時代です。
上述した3名のキーマンが中心となって開発阻止に動きます。
何よりも「スピード」
由布院の自然を守る会→明日の由布院を考える会へと発展した「大義名分」
知名士百人へのアンケートに代表される、「話題性」「マスコミの活用」
数名の若者が始めた運動が功を奏し、ゴルフ場計画は中止されます。
この結果がもたらしたものが非常に大きく・・・
まだ、環境(自然)<開発(経済)が当たり前だった時代に、由布院は自然環境を大切にするまちだというイメージを植えつけることに成功したのです。
当時、となりの別府には大きな歓楽街があり、飲んで食べて歌って楽しむ団体客がたくさん訪れていました。
別府駅
高い建物が立ち並ぶ、別府のまちなみ
由布院はそれを真似ることを否定しました。
別府をはじめとする他の有名温泉地が「団体、男性、歓楽街」と叫んでいたときに
由布院は「小グループ、女性、保養地」を目指しました。
量>質の時代に、逆を目指す。いまでこそ、なんでもないことのように思えますが、これはすごいことです。
むろん、多くの観光業者の反対がありました。
が、それを押し切って、由布院は独自の道を歩き始めたのです。
そうです、このときに女性からの圧倒的な支持を受けることになる現在の「由布院温泉」の原型ができあがったのです。
由布院は田舎であり、田舎とは不器用で効率よく生きられません。
でも、その効率的でない「のんびり」「ゆっくり」という別の価値観が求められる時代になったのです。
由布院のまちのすぐ横に広がる牧草地
↑別府のまちを一望
↓由布院のまちを一望
もうひとつ、『由布院らしさ』を語る上で欠かせないキーワード。
それは、由布院は「生活観光地」であるということ。
由布院を愛し、何度も訪れる方に共通することは、由布院の日常生活を愉しみに来ているということ。
「観光というものは特別に観光のものとしてつくられるべきではないのです。その土地の暮らしそのものが観光というものなのです。」
中谷健太郎氏はいいます。
溝口薫平氏はこうも言っています。
「地域というものがあってこそ、旅館業は成り立つのだ。由布院という町が良くならなければ、私たちの旅館業も良くならない。旅館業だけが良くなる。そのようなことは絶対にありえない。また、あってはならない。地域があってこそ、私たち旅館業は生きていける。そう、はじめに由布院という地域ありきなのだ。『観光』ではなく、まず『地域』ということだ。そういう想いで、由布院の人たち、みんなでがんばってきたのだ。」
観光よりもまず地域ありきで、地元住民のために地元住民自身がおこなってきたまちづくりがもたらしたのは、訪れたいまちNo.1の称号、そして400万人の観光客。
住みよさNo.1→訪れたいNo.1になり得るということなのです。
守山は、観光でまちおこしを狙っているわけではありません。
しかし、もともと温泉地であり観光のまちだった由布院が、常に来街者の目線を意識すると同時に、まず何よりも地域(地元)を大切にしたからこそ今があるという事実は、おおいに学ぶべきところがあると思います。
人財(=人材、後継者)育成についても、由布院には目を見張るものがあります。
昭和40年頃、大活躍した若者たちも、もちろん今は年老いています。
当時、偶然にも「ワカモノ・バカモノ・ヨソモノ」の3要素を持ったキーマンが結集していたのですが、どこのまちでも得てして強烈なリーダーの後継者に悩まされるものです。
成功した創業社長の息子が、どうしようもないボンクラというのはよくある話。
しかし、由布院では今も、多数の若者が大活躍をしています。
ではその秘密は、どこにあるのか。
ひとつは、その環境。前述のキーマンたちがつくった様々な会。
非常に前向きで、活発な議論を聞いてきた後輩たちは、おそらくのびのびと育ったことでしょう。
もうひとつは、なんといっても由布院のヨソモノを受け入れようとする、その姿勢にあると思います。
その中の有名なエピソード。
由布院には全国的にも珍しい、観光協会と旅館組合が一緒になって運営している
「由布院観光総合事務所」というものがあります。
ここは、「まちづくり情報センター」という機能も兼ねていて、事務局長にはできるだけヨソモノを据えるようにしているそうです。
普通なら、行政のOBだとか、まちに詳しい人がなるものですが、由布院は極力、外の風を入れようとしているのです。
過去に東京のコンサルや、瀬戸市役所、静岡県庁職員などが事務局長に就任しているそうです。
平成10年の公募の際は、全国から93人の応募があったとか。
町長の経験者や、会社の重役など多種多様な人が手を上げ、最終的には34歳の現役東京都庁職員米田氏が選ばれたそうです。
彼を選んだ理由というのが面白い。
面接時、トラブル対応についての質問で、以下のようなやりとりがありました。
面接官は中谷氏。
中谷氏「由布院観光総合事務所には、時には苦情を言ってくる観光客がいます。そのとき、あなたならどうしますか?」
米田氏「事情をよく聞いて、丁寧に説明するなり、それなりの対応をします。」
中谷氏「それでも、苦情を言う観光客がいます。どう対応しますか?」
米田氏「ゆっくりとよく事情を聞いて、より丁寧に対応します。」
中谷氏「それでも、しつこく苦情を言う人もいます。どう対処しますか?」
米田氏「時間をかけて事情を聞いて、その人がどうして欲しいのか、それに対処します。」
中谷氏「それでも、それでも、苦情をどなるように言います。どう対処しますか?」
それはしつこくしつこく尋ねたそうです。
最後に米田氏はにやりと笑ってこう言いいました。
「表へ出ろ」
その瞬間、中谷氏はこの人なら、と思ったそうです。
また、米田氏は滅法酒に強く、いくら飲んでも酔わないことも理由のひとつだったとか・・・。
そんな彼が、都庁を辞めて、奥さんと二人の子どもを連れて、由布院に移り住んだというのですから、まさに天晴れな人財の獲得です。
【行政との関係】
どこのまちでも行政主導が当たり前だった時代でした。
当時から、由布院は民間主導のまちづくりをおこなっています。
もちろん、行政の頑張りもあったに違いないのです。
しかし、行政職員がゆえの難しさ・・・
・常に責任ある姿勢をとり続けなければならない。
・組織の中の一員として動かねばならない。
・中立であらねばならない。
・批評的立場がとれない。
・そして何より、失敗が許されない。
行政が自由に考え、ものを創るというのは極めて難しい。
溝口氏曰く
「まちづくりは『人づくり』。そのためには、若い人が何かをしようとするとき、何らかの支援を少しでもしてくれる。それが『行政』の役割」
また、彼はまちづくりの視察で訪れた方からの「行政は何をしてくれましたか?」という質問に対しては
「邪魔をしなかった」
と答えるようにしているそうです。
自分たちの力だけでなんとかしようと本気で考えている人だからこそ、いえることだと思います。
まちづくりのキーマンたちと行政の関係を示すに溝口氏は、
「対立的信頼関係」
と表現しています。
お互い「良きまちにしたい」という思いは同じ。
ただ「馴れ合いではいけない」という気持ち。
行政だけでなく、この関係をまちのキーマンたちと結べたとき、まちづくりは飛躍的に進んでいくのではないでしょうか。
【これからの由布院の課題】
まちを歩くと、観光客が溢れかえっています。
狭い道をためらいなく、自動車が駆け抜けます。
時代が由布院に追いついた結果、現在では由布院のキャパシティを超える観光客が訪れるようになりました。
これを手放しに喜べない状況になっています。
そう、「のんびり」「ゆっくり」という『由布院らしさ』を楽しめなくなりつつあるのです。
押し寄せる観光客目当ての、どこの観光地にもあるような大手資本の土産店も増えてしまいました。
(派手な看板や押し寄せる観光客により、「らしさ」が損なわれる由布院)
現在、由布院では5年後の観光客を減らすことを目指しておられます。
まさにこれが『由布院らしさ』
どこの観光地が観光客減を目指すというのでしょうか。
たった1日の滞在では『由布院らしさ』はわかりません。
由布院を好きな方は、一生に何度も、一年に何度も、そしてその中でも連泊をして初めてその魅力がわかるといいます。
観光バスに乗って、通り過ぎただけでは由布院の魅力はわかりません。
精一杯、予習していった私も、まだまだ由布院の本当の魅力をつかみきれていません。
またいつか必ず由布院というまちを訪れたいと思いました。
まちづくりには、企画、調整、伝道力が必要。
守山らしさをいかす。
対立的信頼関係。
最後に、参考にしたい由布院を代表する町家のカフェ(バー)を紹介します。
亀の井別荘「天井桟敷」
【参考文献】
由布院の小さな奇跡 木谷文弘 新潮社
滋賀大学観光まちづくりフォーラム 講演録
「由布院のまちづくりに学ぶ」
由布院にみる地域づくり、まちづくり
Posted by みらいもりやま21 at 07:51│Comments(3)
│おでかけ
この記事へのコメント
ただのお忍び旅行と思いきや、お土産を引っさげて帰還するあたり、いつもながらの探求芯に敬服します。
目標が出きれば更に飛躍できるのがアナタラシイ(w)
由布院に再訪する機会があれば是非ともご一緒したいです。もちろんお勉強も兼ねてです(笑)
目標が出きれば更に飛躍できるのがアナタラシイ(w)
由布院に再訪する機会があれば是非ともご一緒したいです。もちろんお勉強も兼ねてです(笑)
Posted by お湯好きの鉄人 at 2011年10月27日 10:57
>鉄人さま
いつもコメントありがとうございます。
返事遅くてすいません。
バタバタしてて、記事書くだけでメイチでした。
佐世保行きたかったな~。
今日は和歌山行ってきます。
今週は伊丹もあるし、時間有効に使わなくてはヤバイですw
ご協力宜しくお願いします。
由布院視察やりましょう!
いつもコメントありがとうございます。
返事遅くてすいません。
バタバタしてて、記事書くだけでメイチでした。
佐世保行きたかったな~。
今日は和歌山行ってきます。
今週は伊丹もあるし、時間有効に使わなくてはヤバイですw
ご協力宜しくお願いします。
由布院視察やりましょう!
Posted by 石上 at 2011年11月07日 05:14
最後まで、ワクワクして
読ませて頂きました。
勉強になりました!感謝!
読ませて頂きました。
勉強になりました!感謝!
Posted by マダムM at 2011年11月16日 18:47